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特別連載 「時計産業の聖地を作り上げた名門ランゲ一族の系譜を辿る」④

 

特別連載 「時計産業の聖地を作り上げた名門一族の系譜を辿る」

 
第4回

激動の時代を乗り越えて
受け継がれた伝統と精神

 

エミール・ランゲより経営を受けついだ息子たち。左から長男のオットー(1878-1971)、次男のルドルフ(1884-1954)、三男のゲルハルト(1892-1969)。そしてルドルフの息子がウォルター・ランゲである

 
 

戦後の混乱期に見舞われた3代目ランゲ

 
 2代目のリヒャルト・ランゲとエミール・ランゲにより盤石の体制を築いていったA.ランゲ&ゾーネの経営陣に、エミールの長男オットー・ランゲが加わったのは1906年のことである。さらにふたりの弟ルドルフ・ランゲとゲルハルト・ランゲも後に加わり、同社の舵取りは徐々に新しい世代へと引き継がれていった。
 
 第1次世界大戦後まもなく、オットー・ランゲへと経営が受け継がれその後も順風満帆だったA.ランゲ&ゾーネだが、アメリカを端に発した世界大恐慌(1929年〜)によって状況は一変する。
 当時、国内第2位だった銀行の倒産をきっかけに金融危機が起こり、結果多くの国内企業が連鎖破綻したのだ。この影響はグラスヒュッテの時計産業にも波及し、多くの時計メーカーが閉鎖に追い込まれていった。ちなみに世界大恐慌前と後(25年と33年との比較)では、ドイツ全体で約30%もの職業が失われたとされる。
 

世界大戦や世界大恐慌に翻弄されながらも、オットー・ランゲは宝石商であるヴェンペの2代目ヘルベルト・ヴェンペとの共同事業としてグラスヒュッテ天体観測所の設立のために尽力するなど、ドイツ時計産業の発展に寄与した

 
 こうした厳しい状況を、高精度時間計測の分野における実績と優れた製品のおかげでなんとか乗り切ったA.ランゲ&ゾーネだったが、安心したのも束の間、1939年には第2次世界大戦が勃発。これに伴い、政府系の資本が入っていたUROFA(ドイツムーヴメント製造会社グラスヒュッテ)とUFAG(グラスヒュッテ時計会社)がドイツ軍の指定工場に認定された。
 
 こうした背景もあってフェルディナント・アドルフ・ランゲの救貧の志によって時計産業の街へと発展したグラスヒュッテは、皮肉にも軍需産業の街として敵国の標的のひとつになってしまったのである。実際、グラスヒュッテは1945年の終戦前夜にも空襲に見舞われ、この際、A.ランゲ&ゾーネの本社工房がほぼ完全に焼失してしまっている。
 

左/第1次世界大戦前にはA.ランゲ&ゾーネは最盛期を迎え、各国の博覧会などでメダルを獲得した。右/第2次世界大戦中にA.ランゲ&ゾーネが製作した軍用時計。文字盤にあった“ヴァッヘンSS”(ナチスドイツ武装親衛隊)の文字は消されている

 
 終戦後、一族全員で会社を再建しようと動きだしたものの、悲劇はさらに続く。48年に東ドイツ政府にソビエト占領地区内にあった会社を東ドイツ政府に接収され、さらにその後、国営コンビナートに吸収されてしまったのだ。
 こうして、F.A.ランゲが創業し100年以上の歴史を培ってきた伝説の時計メーカーが、一度は消滅してしまったのだ。
 
 

ドイツ統一によって実現したブランド再興の夢

 
 歴史が再び動き出すのは、会社消滅から約40年後のことである。
 そのキーマンとなったひとりは、ルドルフ・ランゲの息子ウォルター・ランゲである。
 

1990年に会社を復活させた4代目の故ウォルター・ランゲ

 
 1924年にフェルディナント・アドルフ・ランゲのひ孫として生まれた彼は先代たちと同じの道を歩むべく、41年にオーストリア東部の町カールシュタインにある名高い時計師養成学校に入学。卒業後(戦争への招集によって一旦は学業を中断せざるを得なかった)、空襲を受けた会社の再建に協力するため、故郷のグラスヒュッテに戻ったのである。
 しかし、そんな矢先に会社が東ドイツ政府に接収され事実上消滅。ウォルター・ランゲは強制労働から逃れるため、旧西ドイツへと亡命を余儀なくされた。
 
 ウォルター・ランゲは亡命後も後にした故郷のことを忘れることはなかった。そんな苦悩の日々を過ごすなか、大きなターニングポイントとなったのは1989年11月、ドイツを東西に分断していたベルリンの壁の崩壊だ。
 
 そしてベルリンの壁崩壊に伴ってドイツ統一がなされたことを、一族の時計工房をグラスヒュッテに再建する千歳一隅の好機だと判断した彼は、すぐさまもうひとりのキーマンとともに行動を起こす。
 この人物こそ、当時、時計ブランドの経営者として輝かしい実績を持っていたドイツ人のギュンター・ブリュームラインである。ウォルター・ランゲは彼とともにA.ランゲ&ゾーネの工房を新たに設立する計画を立て、1990年12月7日に会社を設立。さらに“A.ランゲ&ゾーネ”を世界中で商標として登記した。
 
 なおこの12月7日とはいうのは、彼の曽祖父フェルディナント・アドルフ・ランゲが145年前、グラスヒュッテに時計工房を開いたまさにその日だ。
 

ウォルター・ランゲとともにブランド復活に尽力した故ギュンター・ブリュームライン

1994年当時のA.ランゲ&ゾーネ本社

 
 ウォルター・ランゲは後に、復興当時のことを次の振り返っている。
「あの頃はまだ何もありませんでした。作って売る時計もない、従業員もいない、社屋も機械もない。あったのは、再びドイツ・ザクセンで世界最高の時計を製作したいという思いだけでした」
 

1994年10月24日に実施された、ブランド復興後初コレクションの発表会の模様

 
 こうして復興に向けての準備が着々と進められ、4年後の1994年10月24日、新生A.ランゲ&ゾーネの第1号コレクションを大々的に発表。
 名門復活のニュースは、センセーショナルなそのコレクションとともに瞬く間に世界中へと広がり、名実ともにブランドの復活を世界中の時計愛好家たちに強く印象付けたのである。その後のA.ランゲ&ゾーネの躍進ぶりは改めて説明するまでもないだろう。復活から約30年が経った現在、ドイツ時計最高峰のブランドとして君臨し、かつて以上の輝きを放っている。
 
 フェルディナント・アドルフ・ランゲから受け継がれた伝統と精神は、いまなおA.ランゲ&ゾーネにおける最も重要な理念として掲げられている。
 
 

<Close Up Collection>
ランゲ1“25th アニバーサリー”コレクション


 ブランド復興後の初コレクションであり、新生A.ランゲ&ゾーネのアイコニックピースともなっているランゲ1の誕生25周年を祝うアニバーサリーモデルが、2019年の1年間をかけて発表されている。
 ランゲ1の独特のダイアルデザインそのままに、各モデルホワイトゴールドケースに収められ、アニバーサリーエディションとして25本限定で製作される。
ランゲ1・デイマティック“25th アニバーサリー”

ランゲ1・デイマティック
“25th アニバーサリー”

2019年8月に発表されたアニバーサリーコレクションの第8弾。特徴的な文字盤がランゲ1と鏡映しとなった自動巻きモデルのデイマティックがベースで、数字を含むプリント文字の色は青焼きによる針のブルートーンと統一された。搭載するのは自動巻きの自社製キャリバーL021.1。プラチナ製分銅を付けた大型ローターを採用することで効率的にゼンマイを巻き上げ、最長50時間のパワーリザーブを実現した。もちろん、グラスヒュッテストライプやペルラージュ模様をはじめとする様々な装飾技術が駆使された秀逸な美観を備える。
Ref.320.066。K18WG(39.5mm径)。日常生活防水。自動巻き(Cal.L021.1)。世界限定25本。495万円(税抜)



ランゲ1・ムーンフェイズ“25th アニバーサリー”

ランゲ1・ムーンフェイズ
“25th アニバーサリー”

天文表示機構にデイ&ナイト表示を組み合わせるという斬新な発想を形にし、2017年に発表されたランゲ1・ムーンフェイズをベースにしたアニバーサリーコレクションの第6弾。このムーンフェイズ表示は、ゴールド無垢製の天空ディスクとホワイトゴールド製の月が別体となった2層構造を採用。月は常にその時刻に対応する空を背景にするため、昼夜の判断が容易に行えるという仕組みだ。また29日12時間44分3秒という新月から次の新月までの平均的な周期を限りなく忠実に再現しており、1日分の誤差が生じるのは122.6年後だ。
Ref.192.066。K18WG(38.5mm径)。日常生活防水。手巻き(Cal.L121.3)。世界限定25本。494万円(税抜)


 
 
過去の記事
第1回 ドイツ時計産業の聖地へと発展した街
第2回 グラスヒュッテ時計産業の祖 F.A.ランゲ
第3回 名声を世界に広げたF.A.ランゲの息子たち
 
協力◎A.ランゲ&ゾーネ
www.alange-soehne.com/ja
 
 
 

2019.08.28 UPDATE