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モリッツ・グロスマン物語 第1回「グラスヒュッテの地にその名を残す伝説の時計師」

18世紀のグラスヒュッテ
ドイツ東部のザクセン州の南部、チェコとの国境近くでエルツ山地の山合いの町、グラスヒュッテ。人口わずか2000人のこの町は、一時銀鉱山として栄えたが、18世紀には資源が枯渇し、貧困に喘いでいた。そこで救貧事業として時計産業を興業したのがアドルフ・ランゲである

 
 

MORITZ GROSSMANN

モリッツ・グロスマン

 

モリッツ・グロスマン物語

第1回「グラスヒュッテの地にその名を残す伝説の時計師」


 2008年に創業したモリッツ・グロスマン。ドイツ時計産業の聖地とも呼ばれるグラスヒュッテにおいて、最も新しい時計メーカーである。しかしながら、いまやドイツを代表する高級時計メーカーのひとつとして確固たる存在感を示すほど、その躍進ぶりは目覚ましい。その実力たるや日本でも多くの時計愛好家から高い支持を集めるほどだ。そんなモリッツ・グロスマンの魅力とはどこにあるのか、毎月1回の連載で一つひとつ掘り下げていきたい。その第1回はモリッツ・グロスマンの歴史的な背景について。
 
 モリッツ・グロスマンというブランド名は、 19世紀半ばグラスヒュッテの地に、時計産業を興したことで知られるフェルディナント・アドルフ・ランゲ(A.ランゲ&ゾーネの創始者)とともに、グラスヒュッテ時計産業の歴史に名を刻む伝説の時計師、カール・モリッツ・グロスマンに由来している。
 

 グラスヒュッテは、ドイツ北東部、古都ドレスデンにほど近い、チェコとの国境沿いにある山あいの小さな町だ。いまでは10社以上もの名だたる高級時計メーカーやサプライヤーが本社を構える。まさにドイツ高級時計産業の聖地と称されるゆえんである。16世紀から、銀鉱山として栄えていたグラスヒュッテだったが、18世紀になると次第に鉱物資源も枯渇し、町は貧困に喘いでいた。その救貧事業としてアドルフ・ランゲが提案し、1845年に自からが陣頭指揮をとってこの地に興したのが時計産業だったのである。
カール・モリッツ・グロスマン
カール・モリッツ・グロスマン(1826-1885)

 

 もともと鉱業だけでなく織り物や木彫りの工芸品でも知られていたため、人々は手が器用で粘り強い精神を持ちあわせていた。そのため新しい産業を受け入れるのにそう時間はかからなかったのだろう。グラスヒュッテの時計産業はその後も順調に拡大し、19世紀後半には世界的に名声を得るようになったのである。しかし、この躍進はアドルフ・ランゲだけでなく、それを一緒に支えてきた、義理の弟、フリードリッヒ・アウグスト・アドルフ・シュナイダー(1855年創業)とユリウス・カール・フレドリッヒ・アスマン(1852年創業)、そして友人であり部品や工具の改善に貢献したモリッツ・グロスマン(1854年創業)と、この3人の時計師の存在なくしては、この偉業を成し得ることはできなかった。
 
 モリッツ・グロスマンは、ドレスデンの技術教育学校に2年間在籍、この間に当時の宮廷時計師であったヨハン・フリードリッヒ・グートケスのもとで時計作りを学んでいる。そして、ここで生涯を通じて友人となるアドルフ・ランゲと知り合うことになる。その後、時計技術についてさらに見聞を広げるために修業の旅に出たモリッツ・グロスマンは、まずアルトナに出向き1847年にクロノメーター製作者のモーリッツ・クリーレと知り合う。次いで、ミュンヘンの宮廷時計職人ヨセフ・ビエルガンツのもとで学び、その後はスイス時計産業の中心地ラ・ショー・ド・フォンに赴く。その後はさらにイギリス、フランス、デンマーク、そしてスウェーデンを転々としながら、海外の行く先々で優れた時計技術とその理論について学んでいった。
 
 そして1854 年にドレスデンへと戻ってきたモリッツ・グロスマンは、アドルフ・ランゲから、グラスヒュッテに来るように説得される。理由は、時計製造に欠かせない優れた工作機械が必要だったからである。そして、この地に精密機械の工房“モリッツ・グロスマン時計製造会社”を設立し、旋盤機や精密測定機など高精度の計測機器類を作り各社に提供したのだった。優れた時計師の存在もさることながら、このこともグラスヒュッテ時計産業の技術レベルの底上げに繋がったことはいうまでもない。やがて、海外で吸収した時計技術を生かし、懐中時計や天体振り子時計、マリンクロノメーターの製作を手がけるようになり、秒計測機や脱進機の大型模型で特許を取得する。ちなみに、モリッツ・グロスマンの生涯生産本数は7000~8000個といわれている。

1882年製のアンクル脱進機付きクロノメーター懐中時計
モリッツ・グロスマンが1882年に完成させたアンクル脱進機付きクロノメーター懐中時計
ムーヴメントNo.5306
ムーヴメントNo.5306。当時最新の脱進機に整備性の高い3分の2プレート。ピラー(柱)構造という特徴的な設計だった

 
 また、内外を問わず専門分野の刊行物に寄稿したり、時計学に関する書物を翻訳するなど、海外で知り得た技術理論についても惜しむことなく公表し、1865 年には、“デタッチトレバー脱進機”と題された彼の論文が、英国時計協会が主催するコンテストで受賞。その内容はおおいに賞賛された。
 
 このように、技術だけでなく理論的見地からの様々な情報を広く伝えることにも積極的だったモリッツ・グロスマンは、1878年にグラスヒュッテに時計学校を設立し、初代校長に就任。そして、教育という面からもグラスヒュッテの時計産業を支えた。グラスヒュッテ時計産業の祖がアドルフ・ランゲならば、グラスヒュッテの技術水準を教育という面からも大きく高めたのがモリッツ・グロスマンなのだ。アドルフ・ランゲと同様にこの地に大きな功績を残した偉大なる時計師たるゆえんである。
 

グラスヒュッテ・ドイツ時計学校
1878年にグロスマンが陣頭指揮をとって設立されたグラスヒュッテ・ドイツ時計学校(1905年)

 
さて、次回はこの偉大なる時計師の名を冠して2008年に誕生した新生モリッツ・グロスマンについて紹介する。
(文◎菊地吉正)
 

CHRONICLE

1826

3月27日、モリッツ・グロスマン、ドレスデンに生まれる。

1840-1842

14歳から現在のドレスデン工科大学の前身である技術教育学校で2年間学び、この間に当時の宮廷時計師であったヨハン・フリードリッヒ・グートケスのもとで時計作りを学ぶ。ここで生涯を通じての友人となるアドルフ・ランゲと知り合う。

1842-1847

ドレスデンでゴットフリート・フリードリッヒ・クンメに師事して時計職人の徒弟になる。

1847-1854

1847年アルトナでクロノメーター製作者のモーリッツ・クリーレと知り合う。その後、ミュンヘンの宮廷時計職人ヨセフ・ビエルガンツのもとで学び、ラ・ショー・ド・フォンへ赴き、さらにイギリス、フランス、デンマーク、スウェーデンを転々とし、行く先々で時計技術についての理解を深める。同時に軍に服役。

1854

グラスヒュッテにモリッツ・グロスマン時計製造会社を設立。高精度の計測機器類をはじめ、懐中時計や天体振り子時計、マリンクロノメーターの製作を手がけるようになり、秒計測機や脱進機の大型模型で特許を取得する。

1858

モリッツ・グロスマンの指揮により体操選手有志による消防隊が創設される。

1859

グラスヒュッテ軍人会の設立。

1865

ミュグリッツ渓谷での鉄道建設に働きかける。

1866

英国時計協会が主催するコンテストで『デタッチトレバー脱進機』と題されたモリッツ・グロスマンによる初版の論文が受賞。

1876

ザクセン王国の議会議員に選ばれる。

1878

5月1日、グラスヒュッテにドイツ時計学校を設立。

1885

1月23日、ライプツィヒでワールドタイムの導入についてスピーチを行っている最中突然息を引き取る。会社を解散。

 

問い合わせ:モリッツ・グロスマン ブティック TEL.03-5615-8185
www.grossmann-uhren.com

 

2018.04.17 UPDATE