独立時計師“マルコ・ラング” のウオッチメイキング
LANG & HEYNE
ラング&ハイネ
宮廷時計の伝統的時計作りを貫く
独立時計師“マルコ・ラング”
ザクセン王国時代に繁栄した古都、ドレスデン。そんな歴史的な地に工房を構え、往時の宮廷時計の伝統を継ぐ “時計芸術”を現代に貫くラング&ハイネ。創業者にして独立時計師創作家協会(AHCI、通称アカデミー)の正式メンバーでもあるマルコ・ラングのウオッチメイキングとはどんなものか。数回にわたってその魅力に迫ってみたい。
ラング&ハイネの工房は、ドレスデン郊外のひっそりとした住宅街に建つ。工房で働く時計師は12名。その平均年齢は30歳と若い。しかしながら往時の宮廷時計の伝統を受け継ぐ時計作りを現代に貫き、部品の95%を自社で作り上げるという、徹底したハンドメイドにこだわる。そのためひとりの時計師がムーヴメントの組み立てからケーシングまでを担当する。
創業したのは2001年。そのブランド名は創業者である二人の時計師、マルコ・ラングとミルコ・ハイネの名前にちなんで付けられた。しかし、ミルコ・ハイネは翌年工房を去り自身の道(現在はノモス社で自動巻きムーヴメントの開発を担当)を歩み出したため事実上はマルコ・ラングが育て上げたブランドということになる。
このマルコ・ラング。代々伝わる時計師家系の5代目として1971年にドイツ・ドレスデンで生まれた。その父、ロルフ・ラングは生粋の時計職人である。1979〜89年まで世界的にも重要な時計コレクションが保管されていることでも知られるドレスデン王宮内にあった数学・物理サロンにおいて、主任修復時計師を務めた人物である。また、東西ドイツ統一後の94年、A.ランゲ&ゾーネが再興するとデザイナーとして在籍、99年からはプロフェッショナルトレーニングの責任者に就くなど、新生A.ランゲ&ゾーネの再興を技術的な面から支えた時計師のひとりだ。
実のところ、ラング&ハイネの共同創業者だったミルコ・ハイネは、当初A.ランゲ&ゾーネで修行を積んでおり、そのなかでも特に優秀で才能に溢れる人物だったといわれる。そんなミルコ・ハイネに声をかけ、しかも息子のマルコ・ラングに引き合わせたのは、ほかならぬA.ランゲ&ゾーネでプロフェッショナルトレーニングの責任者を務めていたロルフ・ラングだったのである。
マルコ・ラングは、父の勧めからグラスヒュッテにある精密機械・金属加工の専門学校で3年間学び、金属加工技術を習得。その後、北ドイツで著名な時計師として知られていたイーノ・フレスナーの下で修行に没頭。とりわけ精密振り子時計の製作に深くかかわるようになる。そして7年間の修行を終えた1999年、時計職人としてマイスターの資格を得たマルコ・ラングは、その後ドレスデンに戻り、アンティーク時計の販売や修復、復元などを手がける自身のショップ“Weißen Hirsch”を営む。ラング&ハイネを設立したのはそれから2年あまり後のことだ。
2002年、ラング&ハイネ設立からわずか1年あまりで最初の作品となる“フリードリッヒ・アウグスト Ⅰ世”と“ヨハン”を、その年のバーゼル・メッセにて発表する。その高い芸術性と美しさは大いに注目を集め、多くの契約を得られるほど大成功を納めた。そして、時計の製作と創作のみに専念することを決意したマルコ・ラングは、03年には、アンティーク時計の販売や修復などを手がけてきたショップ“Weißen Hirsch”を売却し、工房をドレスデン郊外に移転する。
そして2005年、太陽の入射角を直接表示する世界初の独自機構を装備したキャリバーⅢを完成させ、その搭載モデル“モリッツ”を発表。同年には、3年間のメンバー候補者としての暫定期間を経て、晴れて独立時計師創作家協会(AHCI、通称アカデミー)の正式メンバーとして承認される。つまり、これまでマルコ・ラングが目指してきた、往時の宮廷時計を範とする芸術性と創造性を突き詰めたウオッチメイキングは、対外的にも高く評価されることとなり、創業からわずか4年にしてドイツ国内のみならず広く世界の時計愛好家から一目置かれる存在となったのである。
では、マルコ・ラングの貫く“ザクセン芸術時計”とはいったいどのようなものなのか、これについては次回以降から詳しく掘り下げてみたいと思う。
(文◎菊地吉正)
CHRONICLE
2018.05.02 UPDATE