モリッツ・グロスマン物語 第1回「グラスヒュッテの地にその名を残す伝説の時計師」
MORITZ GROSSMANN
モリッツ・グロスマン
モリッツ・グロスマン物語
第1回「グラスヒュッテの地にその名を残す伝説の時計師」
2008年に創業したモリッツ・グロスマン。ドイツ時計産業の聖地とも呼ばれるグラスヒュッテにおいて、最も新しい時計メーカーである。しかしながら、いまやドイツを代表する高級時計メーカーのひとつとして確固たる存在感を示すほど、その躍進ぶりは目覚ましい。その実力たるや日本でも多くの時計愛好家から高い支持を集めるほどだ。そんなモリッツ・グロスマンの魅力とはどこにあるのか、毎月1回の連載で一つひとつ掘り下げていきたい。その第1回はモリッツ・グロスマンの歴史的な背景について。
モリッツ・グロスマンというブランド名は、 19世紀半ばグラスヒュッテの地に、時計産業を興したことで知られるフェルディナント・アドルフ・ランゲ(A.ランゲ&ゾーネの創始者)とともに、グラスヒュッテ時計産業の歴史に名を刻む伝説の時計師、カール・モリッツ・グロスマンに由来している。
もともと鉱業だけでなく織り物や木彫りの工芸品でも知られていたため、人々は手が器用で粘り強い精神を持ちあわせていた。そのため新しい産業を受け入れるのにそう時間はかからなかったのだろう。グラスヒュッテの時計産業はその後も順調に拡大し、19世紀後半には世界的に名声を得るようになったのである。しかし、この躍進はアドルフ・ランゲだけでなく、それを一緒に支えてきた、義理の弟、フリードリッヒ・アウグスト・アドルフ・シュナイダー(1855年創業)とユリウス・カール・フレドリッヒ・アスマン(1852年創業)、そして友人であり部品や工具の改善に貢献したモリッツ・グロスマン(1854年創業)と、この3人の時計師の存在なくしては、この偉業を成し得ることはできなかった。
モリッツ・グロスマンは、ドレスデンの技術教育学校に2年間在籍、この間に当時の宮廷時計師であったヨハン・フリードリッヒ・グートケスのもとで時計作りを学んでいる。そして、ここで生涯を通じて友人となるアドルフ・ランゲと知り合うことになる。その後、時計技術についてさらに見聞を広げるために修業の旅に出たモリッツ・グロスマンは、まずアルトナに出向き1847年にクロノメーター製作者のモーリッツ・クリーレと知り合う。次いで、ミュンヘンの宮廷時計職人ヨセフ・ビエルガンツのもとで学び、その後はスイス時計産業の中心地ラ・ショー・ド・フォンに赴く。その後はさらにイギリス、フランス、デンマーク、そしてスウェーデンを転々としながら、海外の行く先々で優れた時計技術とその理論について学んでいった。
そして1854 年にドレスデンへと戻ってきたモリッツ・グロスマンは、アドルフ・ランゲから、グラスヒュッテに来るように説得される。理由は、時計製造に欠かせない優れた工作機械が必要だったからである。そして、この地に精密機械の工房“モリッツ・グロスマン時計製造会社”を設立し、旋盤機や精密測定機など高精度の計測機器類を作り各社に提供したのだった。優れた時計師の存在もさることながら、このこともグラスヒュッテ時計産業の技術レベルの底上げに繋がったことはいうまでもない。やがて、海外で吸収した時計技術を生かし、懐中時計や天体振り子時計、マリンクロノメーターの製作を手がけるようになり、秒計測機や脱進機の大型模型で特許を取得する。ちなみに、モリッツ・グロスマンの生涯生産本数は7000~8000個といわれている。
また、内外を問わず専門分野の刊行物に寄稿したり、時計学に関する書物を翻訳するなど、海外で知り得た技術理論についても惜しむことなく公表し、1865 年には、“デタッチトレバー脱進機”と題された彼の論文が、英国時計協会が主催するコンテストで受賞。その内容はおおいに賞賛された。
このように、技術だけでなく理論的見地からの様々な情報を広く伝えることにも積極的だったモリッツ・グロスマンは、1878年にグラスヒュッテに時計学校を設立し、初代校長に就任。そして、教育という面からもグラスヒュッテの時計産業を支えた。グラスヒュッテ時計産業の祖がアドルフ・ランゲならば、グラスヒュッテの技術水準を教育という面からも大きく高めたのがモリッツ・グロスマンなのだ。アドルフ・ランゲと同様にこの地に大きな功績を残した偉大なる時計師たるゆえんである。
さて、次回はこの偉大なる時計師の名を冠して2008年に誕生した新生モリッツ・グロスマンについて紹介する。
(文◎菊地吉正)
CHRONICLE
2018.04.17 UPDATE