ドイツ時計産業の歴史①
スイスに次ぐ機械式時計のドイツ2大産地
グラスヒュッテ地方と
シュヴァルツヴァルト(黒い森)地方
大きくいうと、ドイツの時計メーカーは二つの地域に分かれて存在してきた。ひとつは、チェコに近いエルツ山脈にあるグラスヒュッテ。もうひとつはスイスに近いシュヴァルツヴァルト地方だ。
歴史の古さを言えば、旧西独のシュヴァルツヴァルト地方である。ライン川の上流にあるこの地域は、黒い森(ブラックフォレスト)という名称の通り、一帯を森で覆われている。この地域に自生する木を使って、シュヴァルツヴァルトの人々は昔から木製のクロックを製造してきた。なかでも有名なのは、1時間ごとに鳩が飛び出して時間を知らせる、通称〝鳩時計(正しくはかっこう時計)〟である。原材料である木に恵まれ、またライン川を通して世界に製品を輸出できたシュヴァルツヴァルトに、古くから時計産業が栄えたのは当然だろう。事実、その長い歴史を証しするように、1852年にはおそらく世界で初の時計博物館が設立されている。
対して、クロックではなくウオッチの製造で成功を収めたのが、チェコ国境近くのグラスヒュッテである。その起こりはシュヴァルツヴァルトより遅い19世紀半ばのこと。ドレスデンの時計職人であったアドルフ・ランゲが、いわゆる失業対策として、グラスヒュッテに時計メーカーを作ったことが始まりである。
時計産業が興る前、グラスヒュッテの街は銀鉱山の採掘で潤っていた。銀が枯渇したためグラスヒュッテは没落してしまうが、工具作りのノウハウを時計作りに転用することは難しくなかった。またグラスヒュッテ近郊の大都市ドレスデンは、ドイツ東部における文化の中心地であった。こういう歴史的・地理的な条件が、この地域の人々を持ち運びが容易で精密なウオッチの製造に駆り立てた。
木製のクロックを中心に発展した西側と、金属製のウオッチを中心に発展した東側。成り立ちの違いは、それぞれの時計にも色濃く反映されている。シュヴァルツヴァルト地方のメーカーはいち早くクロックの大量生産に成功し、そのノウハウを転用することでウオッチの量産化に成功した。対して相対的に手作りを謳い文句にしてきたのが、グラスヒュッテである。では次ページ以降で、その詳細を見ていくことにしよう。
GLASHÜTTE グラスヒュッテ
ザクセン流時計づくりを貫く
ドイツ時計産業の聖地
旧東独の古都ドレスデンとは、日本で例えるなら、東北地方の仙台を思わせる古都だ。ここから車で下ること1時間。エルツ山脈に囲まれた小さな谷に、グラスヒュッテという街がある。人口2000人足らず、歩けば10分で回り終わってしまう小さな街が、ドイツ時計産業の一大中心地のひとつである。
この小さな街が時計産業揺籃(ようらん)の地になった理由は三つある。時計を消費する大都市のそばにあったこと、小規模ながら工業の歴史があったこと、そして人に恵まれたこと、である。グラスヒュッテに時計産業を興したのが、アドルフ・ランゲ(1815~75年)である。しかし、彼に先立つこと2世紀、この地域には精密な時計作りを実現できる素地があったことを忘れてはならない。
ドレスデンやグラスヒュッテは、ドイツのザクセンという地域にある。中世以降、第1次大戦後まで、この地域を支配していたヴェッティン家は、一時期、東ヨーロッパに君臨したハプスブルグ家に肩を並べるほどの勢力を誇った。そしてヴェッティンの歴代侯王は、その富を工芸品だけでなく、実用品の収集にも費やした。王家の趣味は様々な工業の発展を促し、多くの技術者を生むに至った。そのひとりが時計師のアドルフ・ランゲである。才能のあったランゲは、早くから宮廷時計師になるとみなされていたが、彼はこの地域に自身の時計会社を作るという希望を明確に持っていた。
1843年6月25日、ランゲはザクセン政府に対して、時計メーカー設立に関する要望書を送っている。「エルツ山脈(グラスヒュッテのことである)の貧困に苦しむ住民たちに雇用の機会を与えるべく、新しい会社を興すという私の考えを開陳したく存じます」という書き出しで始まる自筆の要望書は、ランゲがどういう狙いで時計メーカーを作りたかったのかを明らかにする。この時期、グラスヒュッテの鉱山は枯れ、住民たちは貧困に苦しんでいた。
ザクセン政府の反応は芳しくなかったが、何度も嘆願書を送った結果、45年5月21日、ザクセン政府はアドルフ・A・ランゲ&ゾーネと契約を結んだ。曰く「政府は6700ターラーをアドルフ・ランゲに払い、彼は15人の若者を雇用して時計を製造する」。
もっとも、鉱山で潤ったグラスヒュッテには、ささやかながらも手工業の歴史があり、かなり精密な道具を自製していた。であればこそ、ランゲはエルツ山脈のなかでも、あえてグラスヒュッテに時計メーカーを作ろうと考えたのである。スイスで近代的な時計製造方法を学んだ彼は、現地で採用した弟子たちに独立を促すことで、何もなかったグラスヒュッテの街を、わずか10年足らずで、時計産業の中心地に変貌をさせることに成功した。
1845年以降、急激に発展したグラスヒュッテの時計産業。しかし、名声のわりに、その規模は大きなものではなかった。そこにビジネスチャンスを見いだしたのが、ヨハネス・デュルシュタインである。彼はグラスヒュッテ銘で安価な時計を作るというビジネスに着目、後にはランゲでさえもこのアイディアに従った。
もっとも、安価な時計を作るという取り組みは、グラスヒュッテに定着しなかった。おそらくは雇用をもたらすという成り立ちがあったためかグラスヒュッテの時計産業は、スイスほどの機械化を進められなかった。もちろん例外はある。それが1918年に創業された〝ドイツ精密時計会社グラスヒュッテ(略称DPUG)〟だ。ランゲ出身のユーゴ・ミュラーはスイスも顔負けの最新の設備を導入することで、グラスヒュッテの近代化を図ろうとしたのである。しかし、第1次大戦後のハイパーインフレはDPUGの経営に大きな打撃を与えた。加えて24年にはスイス時計への輸入関税が廃止され、スイス製の安価な時計がドイツに流入するようになった。グラスヒュッテの時計産業を工業化しようというミュラーの試みは、翌年の6月25日に終わりを告げた。
もっとも、当時の政府はグラスヒュッテの時計産業を近代化することに無関心ではなかった。ザクセン中央銀行は倒産したDPUGを〝ドイツムーヴメント製造会社グラスヒュッテ(通称UROFA)〟と、〝グラスヒュッテ時計会社(通称UFAG)〟に分離したうえで存続させたのである。近代的な設備をもって、スイスの時計産業に抗しようとしたDPUG。その設備と野心は、そっくりUROFAとUFAGに引き継がれたのである。
しかし、時計を大量生産できることが、皮肉にもUROFA/UFAGの運命を決めてしまった。第2次大戦の勃発に伴い、UROFA/UFAGはドイツ軍の指定工場に認定。同社はUROFA 59という優れたクロノグラフを最盛期は月1200本も量産したが、爆撃を受けた工場は荒廃してしまった。手作業からの脱却に成功するかのように思われた、グラスヒュッテの時計産業。しかしドイツの敗戦に伴い、その試みは灰燼(かいじん)と期してしまったのである。
グラスヒュッテの時計生産は1946年の1月にどうにか再開されたが、49年に東ドイツが成立すると、UROFA/UFAGを含むグラスヒュッテの主立った時計メーカーは、段階的に国営企業の〝グラスヒュッテ時計企業(通称GUB)〟に統合されてしまう。皮肉にもグラスヒュッテの工業化は旧GUBでようやく実現したが、70年代に入ると、技術的な遅れは否めなかった。
変化が訪れたのは、89年のことである。立役者となったのはスイスの時計産業で成功を収めたドイツ人、ギュンター・ブリュームラインである。彼はドイツの再統一に先駆けて、亡命していたA.ランゲ&ゾーネの創業家、ワルター・ランゲとコンタクトを取っていた。東ドイツ崩壊の合間をぬって、ブリュームラインとワルター・ランゲはランゲ時計株式会社をグラスヒュッテに設立。94年には新生A.ランゲ&ゾーネをスタートさせたのである。
かつて国営企業であったGUBも、ドイツ統一の余波を受けて、94年に民営化された。以降のGUBは、自動的な生産設備と伝統的な手作業に折り合いを付けつつ生産体制を整えるようになった。同社は2000年にスウォッチ グループに参加。いまではA.ランゲ&ゾーネ同様、グラスヒュッテを代表する高級時計メーカーとして知られるようになった。
かつて工業化と手作業の狭間で苦しんだグラスヒュッテ。しかし旧GUBの時代を経て、現在の各社はその二つに折り合いを付けられるようになったのではないか。できるところは機械化するが、そこに手作業の良さを加えていく。もちろんそういう時計作りを可能にしたのは、グラスヒュッテに優れたマイスターたちがいればこそである。
そもそも救貧事業として始まった、グラスヒュッテの時計産業。エルツ山脈に近代的な時計産業を打ち立てるというアドルフ・ランゲの願いは、1世紀半もの年月と、様々な紆余曲折を経て、大輪の花を咲かせようとしている。
SCHWARZWALD シュヴァルツヴァルト地方[黒い森]
豊富な森林資源を生かした
クロック製造から始まる西の拠点
ライン川の上流に位置するシュヴァルツヴァルト地方は、ドイツ南部に位置する森林丘陵地帯である。この巨大な森林地帯の恵みを受けたのが、シュヴァルツヴァルト地方の時計産業である。この地方のトライベルグは1620年に木製のクロックを製造していたが、その名を高らしめた〝鳩時計(正しくいうとカッコウ時計)〟の出現は、その後1世紀を待たねばならない。伝承に従うならば、シェーンヴァルドに生まれたフランツ・アントン・ケテラー(1676~1749年)は、1738年に鳩時計の原型を作った(異説もあり)。
複雑な彫刻が施されたケースと、毎正時に鳩が飛び出して啼くというギミックを備えたシュヴァルツヴァルトの鳩時計はたちまち人気を博した。結果、1808年の時点でトライベルグとノイシュタットには、688のクロックメーカーと、582名の時計行商人が存在するまでになった。彼らは時計の行商人に完成品を委ね、その時計は街で販売されるか、あるいはライン川を経て国外に輸出された。加えてこの地方は、18世紀後半には、フランスから金属加工の技術を輸入して、時計の質を高めた。
木製のケースと、金属製の部品を備えたシュヴァルツヴァルト製のクロック。これは19世紀半ばに建設されたバーデン鉄道や、ライン川の蒸気船によって世界に広まった。
決定的となったのは、ユンハンスの創業である。ヴュルテンベルク王国の政府顧問を務めていたフェルディナント・フォン・シュタインベイスは、成功を収めた実業家のエアハルト・ユンハンスに時計メーカーの創業を促した。彼のアドバイスは極めて適切だった。というのも、ユンハンスの兄弟であるクサーヴァ・エアハルトはアメリカに住み、クロック向けのケースを製作していたのである。エアハルトはクサーヴァを通じてアメリカの生産法を習得。シュヴァルツヴァルト地方初の近代的な時計メーカーを設立した。
1861年に創業されたユンハンスはかなり近代的な会社であったが、同社の成功を支えたのは、アメリカに比べて相対的に安い労働賃金であった。成功を収めた同社は、66年に木製のケース(その複雑な彫刻は、明らかにシュヴァルツヴァルト地方の影響を受けていた)と金属製の振り子、そしてチャイムを持つ最新のクロックを発明。南北戦争が終わったばかりのアメリカに輸出し、大きな成功を収めた。
ユンハンスの躍進は、やがてこの地域に多くのサプライヤーを生み出し、この地方の時計産業を大きく刺激することになった。以降設立されたメーカーをいくつかを挙げたい。1882年、ハンハルト(設立はスイスだったが、すぐにシュヴァルツヴァルトに移転した)。1920年代半ば、ラコ。27年、ストーヴァ、33年、ラコの兄弟会社であるムーヴメントメーカーのドゥローヴェ(DUROWE)。これらの多くは、当然のようにドイツのサプライヤーが製造したヒゲゼンマイや主ゼンマイを備えていた。
19世紀から20世紀初頭にかけて大きな成長を遂げたシュヴァルツヴァルト地方の時計産業。しかし高い関税率で国内の産業を保護していたドイツ帝国は、第1次大戦で崩壊してしまった。以降、シュヴァルツヴァルト地方の時計メーカーは、スイスとの苛烈な競争にさらされることになる。とりわけ決定的だったのは24年の時計関税撤廃だ。この年以降、ドイツには安価で高性能なスイス製ウオッチが流入することになったのである。
もっともこういった危機は、伝統産業であるクロックには当てはまらなかったし、ウオッチメーカーの危機も、第2次世界大戦の勃発で回避された。この地の時計産業は、軍需産業に従事することで一息ついたのである。しかし皮肉なことに、大きな成功を収めたがゆえに、シュヴァルツヴァルトの時計産業は、軍需産業へと転換せざるをえなくなったのである。
ちなみにドイツと対戦していた連合国は、シュヴァルツヴァルト地方の時計産業の重要性を理解していた。とりわけ、国境を接するフランスにとって、この地域の時計産業は極めて重要なものに映った。そのためか、連合国はフォルツハイムの85%を焼け野原に変えたが、この地域の時計工場には攻撃を加えようとはしなかったのである。ドイツの主立った産業がすべて崩壊するなか、シュヴァルツヴァルトの時計産業は、ほとんど無傷で戦争を乗り切った。
しかし、長いスパンで見た場合、軍需産業に転換したことも、戦争の被害を受けなかったことも、シュヴァルツヴァルトの時計産業を救済したわけではなかった。2度の大戦により、シュヴァルツヴァルトのクロックメーカーは広大なアメリカ市場を完全に失ってしまった。ハンハルトやストーヴァは戦後補償として時計をフランス政府に納入。残ったメーカーも、再びスイスメーカーとの競争にさらされることになったのである。
とはいえ、西ドイツ経済の成長は、シュヴァルツヴァルト地方の時計産業をどうにか延命させた。経済成長に伴って時計の需要が回復すると、これらのメーカーは表面上の繁栄を回復したのである。少なくとも1950年代の半ば、ラコとドゥローヴェは1400名の従業員を雇用し、月に8万個のムーヴメントを製造していたといわれる。また56年のユンハンスはクロノメーターを年に1万本製造。クロノメーターの生産数としてはロレックス、オメガに続いて世界第3位であった。
しかし、シュヴァルツヴァルト地方の退潮は覆うべくもなかった。56年、ユンハンス家は会社をカール・ディールに売却。59年にはラコとドゥローヴェがタイメックスに買収された(65年にはスイスのETAに再売却)。63年には、ユンハンスは自社製ムーヴメントをETAベースに変更。ハンハルトも、事実上腕時計の製造を中止してしまった。
ではシュヴァルツヴァルトの時計産業はついに消滅してしまったのか。そうではなかったのである。ユンハンスとともに育ったサプライヤーたちは、業種変換を果たすことで50年代以降も生き延びた。そして彼らは機械式時計のブームに伴い時計産業に回帰した。しかも彼らサプライヤーは、この地方の時計産業に受けた恩義を決して忘れてはいなかった。いまやシュヴァルツヴァルトの時計産業の復活を支えるのは、こういったメーカーたちである。
世界的な成功を収めたがゆえに、政治経済のうねりに翻弄されてきたシュヴァルツヴァルト地方の時計産業。しかし、一時期世界最大となったその底力は、決して侮れない。ユンハンスを筆頭とする各メーカーの動きを見ると、遠からぬうちに、シュヴァルツヴァルトはかつての名声を取り戻すに違いない。