ドイツ時計産業の歴史④
軍用時計の開発がもたらした
軍事的な頑丈さと
計器的正確さ
軍用時計とは、軍が制式に採用する時計のことを言う。その開発・発展がいち早く求められたのは海軍においてであった。
レーダーも無線もない当時の海軍にとって、戦ううえで自分はいま地図上のどの位置にいて、どの方向へ向かっているのか、正確に船の位置を知ることが必要不可欠だった。それを知る計器となったのが高精度な時計、マリンクロノメーターだ。
開発の中心はイギリスやフランスだったが、当時、それらの国との関係が悪化していたドイツは、マリンクロノメーターの増産も必須となり何と1917年までの間に、大小43ものメーカーが製造に携わったと言われる。その中心的存在だったのがA.ランゲ&ゾーネと後にヴェンペが引き継いだクロノメーターヴェルケである。そして、ドイツ帝国海軍は第1次大戦までにイギリスに次ぐ規模となっていたのだ。
14年6月、サラエボ事件を契機に第1次世界大戦へと突入する。しかし、結果的にはドイツが属する同盟国側の敗北で多額の賠償金が課せられるなど大きな痛手を被っただけでなくドイツ経済自体が危機的状況に陥ってしまった。こうした背景からドイツの時計産業は、職人の手による高級で精密な時計作りから大量生産・均質化を良しとする合理的な時計作りへと傾倒。そんな合理化の口火を切ったのが、グラスヒュッテのチュチマである。26年、DPUG(ドイツ精密時計会社グラスヒュッテ)の破産に伴い、チュチマ創業者、エルンスト・クルツはムーヴメント製造を請け負うUROFA(ドイツムーヴメント製造会社グラスヒュッテ)とケースやリューズなど外装部品の製造を担うUFAG(グラスヒュッテ時計会社)に分割・再編する。そして31年にはチュチマブランドとして売り出したのだ。
一方、シュヴァルツヴァルト地方ではフォルツハイムを中心に同じような生産体制の構築を見据え、27年にラコ、33年にはムーヴメントのエボーシュメーカー、ドゥローヴェがラコのもとで設立。さらに32年には後に旧西ドイツ最大のムーヴメントメーカーとなるPUW、ストーヴァも同時期に誕生している。こうして第1次大戦の苦境を乗り越えたドイツの時計産業であったが、33年に国家社会主義ドイツ労働者党、いわゆるナチス党が政権を獲得すると、ドイツは再び戦争へと突き進んでいく。
39年、ついに勃発した第2次世界大戦。戦術が航空機中心となったため軍用時計も大きく変わった。まず大きく異なるのが、軍部指導のもとで細かく定められた厳格な規定だ。そのなかにはもちろん、時計に関する規定も盛り込まれた。
デザインは懐中時計、腕時計ともにどちらもほぼ同一で、アラビア数字インデックスとレイルウエイトラックを備えた、マット仕上げのブラック文字盤だった。陸軍仕様の時計のほとんどはスイス製。その一方で、海軍と空軍仕様はナビゲーションウオッチとして、ドイツ国内のメーカーによるものがほとんどであった。
海軍のナビゲーションウオッチは主に懐中時計を使用。アラビア数字インデックスとレイルウエイトラックというデザインは同じだが、シルバー文字盤を採用している。ムーヴメントには3時位置にスモールセコンド、9時位置に時計の持続時間表示(パワーリザーブ)ではなく、駆動時間表示を備えたCal.48が搭載された。当時においても特に高級で高精度なものはA.ランゲ&ゾーネがその製造を担っており、クロノメーターの高精度を誇っていた。
また、空軍パイロットが着用したナビゲーションウオッチ、通称Bウオッチ(B︱Uhr)は腕時計型を使用している。アラビア数字とバーインデックスを備えるマットな黒文字盤で、そのケースは直径55㎜のアルミニウムまたは洋銀製の鍛造ケースを使用。さらにケースの色はグレーに統一された。加えて、分厚いパイロットスーツの上からでも装着できるよう、ベルトは長く1枚革で作られている。さらに海軍のスモールセコンドよりずっと見やすいセンターセコンドへの変更もBウオッチならではの特徴だ。
時計の精度にはクラス1とクラス2の2種類が設定され、クラス1ではA.ランゲ&ゾーネのCal.48をセンターセコンド仕様に改良したCal.48/1を採用。その精度は日差1秒という高精度であった。一方、クラス2ではラコを中心に、ストーヴァ、ヴェンペ、そしてスイスメーカーで唯一、IWCが製造を担った。ムーヴメントはそれぞれメーカーによって異なり、クラス1には及ばないものの、負けず劣らずの高精度を実現した。
また、これらの時計と並んで、第2次世界大戦下の軍用時計を代表する存在にクロノグラフがある。チュチマのフリーガー クロノグラフがそのひとつだ。40年に空軍からの依頼により開発されたもので、UROFA製Cal.59を採用した。41年から45年までの間に約3万個が製造されたといわれるが、多くはパイロットと運命をともにし、現存したものも戦後多くは旧ソ連に持ち去られたと言われる。ドイツのメーカーが手掛けたクロノグラフにはハンハルト製のものもある。こちらは空軍でも使用されたが、主に海軍向けに製造されたクロノグラフだ。
こうして第2次大戦下のドイツでは様々な軍用時計が製造されたが、戦後も生き延びることのできた時計メーカーはほんのひと握りにすぎない。再びドイツで軍用時計が製造されるようになるのは、55年に西ドイツにドイツ連邦軍が創設されてから。最初にハンハルト、そしてその後継として採用されたのがユンハンスのクロノグラフだった。
大きな二つの世界大戦によって翻弄されたドイツの時計産業だが、ドイツほどいまも軍用時計の精神を色濃く反映したモノ作りを行うところもない。それはドイツ時計メーカーの現行コレクションを見ても、一目瞭然であろう。