特別連載 「時計産業の聖地を作り上げた名門ランゲ一族の系譜を辿る」②
特別連載 「時計産業の聖地を作り上げた名門一族の系譜を辿る」
第2回
グラスヒュッテ時計産業の祖
フェルディナント・アドルフ・ランゲ
グラスヒュッテに時計産業を興したのが、ご存じフェルディナント・アドルフ・ランゲだ。
彼が残した数々の功績を語っていくうえで、まずは当時の時代背景を知っておく必要があるだろう。
古くから文化都市として栄えたドレスデン
ドレスデン周辺一帯のザクセンと呼ばれる地域は、中世以降、東ヨーロッパに君臨したハプスブルグ家に肩を並べるほどの勢力を誇ったヴェッティン家の支配下にあった。この歴代選帝侯が居城を構えた街がドレスデンだ。とりわけ1694年から1733年まで選帝侯を務めた、“強王”フリードリヒ・アウグスト1世の時代にはヨーロッパ有数の文化都市として発展した。
現在もドレスデンに残る聖母教会、アウグスト橋、ツヴィンガー宮殿といったネオバロック建築の多くは、この時代に建造された(アウグスト1世の死後完成した建物もある)ものである。
ドレスデンが文化都市として性格を強めていった背景には、こうした建築物もそうだが、もうひとつ歴代選帝侯がその富を工芸品だけでなく、実用品の収集にも費やしたことにも関係している。
歴代選帝侯のコレクションは広範囲にわたり、当時世界最高水準を誇ったと言われる。こうした趣味が様々な工業の発展を促し、多くの技術者を生むに至ったというわけである。とりわけ新しいものを好んだアウグスト1世は、時計や科学計測機器の収集に熱心であり、それらを体系的に整理。そのなかでも時計は王宮内にあった「時計の間」で保管され、この手入れと管理を行うのが代々のザクセン宮廷時計師の仕事であった。
アウグスト1世の時代から時は流れて1806年。当時の選帝侯であったフリードリヒ・アウグスト3世がフランスの皇帝ナポレオンⅠ世から王号を獲得し、ザクセン王国の初代国王に就く。
フェルディナント・アドルフ・ランゲの誕生
フェルディナント・アドルフ・ランゲが生まれたのは、ザクセンにおける重大な転機となった王国樹立から10年も満たない、1815年のことだ。
鉄砲職人の息子として生まれたが、両親が離婚し、知り合いの商家に引き取られて幼少時代を過ごしたという。
しかし幸いにも育ての親の計らいでドレスデンの技術学校へ通うことができたF.A.ランゲは、さらに1830年に優れた時計師として国内外で高い評価を得ていたフリードリッヒ・グーケトスの工房に入門を許される。ここで見習いとして働く一方で、時計製造の基礎を身に付けていったのである。
時計師として優れた才能をいち早く開花させた彼は、本当の意味で一人前の職人となるため、1837年からフランス、スイス、イギリスなどへ修行に出る。
この際、各地で学んだことを克明に書き記したのが、現在も残る有名な“旅の記録”だ。このなかに記された数学理論に基づいた様々な計算や複雑なムーヴメントの部品を細部まで忠実に描いた図の数々などから、彼がいかに完璧主義であったかをうかがいしることができる。
その後3年間の修行を終え、グートケスの時計工房へと戻った彼は、すぐに工房の牽引役となる。1841年にはグートケスと共同で、ドレスデンに新しく建設されたゼンパー歌劇場に設置するための”五分時計”が製作された。これが今日のA.ランゲ&ゾーネのコレクションで象徴的な機構として採用されているアウトサイズデイトのモチーフとなっていることは有名だ。
ちなみに翌42年に師匠のグートケスが宮廷時計師に任命されたほか、彼の娘であるアントニア・グートケスとF.A.ランゲが結婚。工房の共同経営者になった。
フェルディナント・アドルフ・ランゲが踏み出した新たな1歩
公私ともに非常に充実した時を迎えていたF.A.ランゲだったが、一方で人里離れた辺境の山地にある街の窮状については心を痛めていた。
とりわけ深刻だったのは、かつて膨大な富をもたらした銀山が枯渇したことで多くの住人が貧困に苦しんでいたグラスヒュッテだ。
この窮状を知ったF.A.ランゲは1843年、ザクセン政府に失業対策として同地に時計メーカー設立に関する要望書を提出。彼の要望は約2年後に受け入れられ、45年5月にザクセン政府と契約を結ぶ。その内容は国からの援助を受ける代わりに現地出身の15名の若者を時計師として育てあげるというものだった。
そして同年、グラスヒュッテに移り住んだF.A.ランゲは会社を設立し、時計の製作を開始。
これが今日、聖地と呼ばれるまでに発展したグラスヒュッテ時計産業の始まりである。
ここからは筆者の推測に過ぎないが、おそらくはF.A.ランゲ自身も、辺鄙な地で、しかもゼロからの状態で、時計産業を根付かせていくのが決して容易ではないであろうことは覚悟していたはずだ。次の宮廷時計師に目されるなどドレスデンにいれば安泰が約束されながらも、あえて困難な道を選んだ理由は、救貧の志にほかならない。そのことについては、後に息子のリヒャルト・ランゲもこう記している。
「新しい産業を打ち立てることで国を救い、また貧困をなくし、人口を増やすという愛国的な野心を父は持っていた」(1876年の回顧録より)
会社設立当初からF.A.ランゲが目指したのは、より多くの雇用を創出することであった。
そのために、まずは当時一般的だった個々の職人の腕に依存する工芸時計から脱却する必要があったのである。
F.A.ランゲが推進した抜本的な改革のひとつがメートル法の導入だ。
というのも、それまで時計の世界で一般的に使用されていた十二進法に基づくリーニュでは、部品に関する計算が複雑でわかりにくかったためである。また同時に、10分の1ミリまでを正確に測ることができる計測用工具なども自らで開発し、作業効率を高めていった。
もうひとつ、積極的に取り組んだのが、時計製造の分業制である。
具体的には従業員に時計製造の基本をひと通り身につけさせたうえで、各自が専門とする分野をもつように指導することで、各工程の作業精度とスピードの向上を図ったのである。
さらに、F.A.ランゲは専門技術を高めていった弟子たちに対して、サプライヤーとして独立を促した。つまり、弟子たちが独立することでより多くの雇用が生まれるというわけである。
この方針は時計師に対しても同じで、ユリウス・アスマン(1852年に独立)や、後にグラスヒュッテに時計学校を設立したカール・モリッツ・グロスマン(1854年に独立)といった高名な人物も、もともとはF.A.ランゲの弟子であった。そのため20世紀初頭までにグラスヒュッテにあった時計メーカーまたはサプライヤーのほとんどは、F.A.ランゲの弟子もしくは孫弟子によって創業された会社なのである。
亡くなる1875年12月まで実に30年間もの長きにわたってグラスヒュッテの街の発展に貢献し、貧困から救った救世主、フェルディナント・アドルフ・ランゲ。
彼が生涯を通じて情熱を注いだ時計作りと救貧の志は、子供たちにも受け継がれていく。
<Close Up Collection>
創業者への敬意を表した現行コレクション
今日、再興したA.ランゲ&ゾーネでは、創業者フェルディナント・アドルフ・ランゲへの敬意を表して、彼の誕生年にちなむ“1815”コレクションが展開されている。
そのデザインで最も個性的なのは、アラビア数字を用いたインデックスとそれを囲う線路をイメージしたレイルウェイ風の分目盛りといった昔年のランゲ製懐中時計を彷彿とさせる要素だ。長年、一族に継承されてきた時計作りの伝統が体現されたコレクションというわけである。またデザインだけでなくムーヴメントにも、素材の特性をそのまま生かした洋銀製の4分の3プレートやブルースクリュー、ビス留め式ゴールドシャトン、ハンドエングレービング入りテンプ受けといった伝統的な要素が取り入れていれられており、かつて王侯貴族も愛した気品ただよう意匠を楽しむことができる。
【第3回へ続く】
過去の記事
第1回 ドイツ時計産業の聖地へと発展した街
協力◎A.ランゲ&ゾーネ
www.alange-soehne.com/ja
2019.08.07 UPDATE