チュチマ・グラスヒュッテCEOインタビュー
TUTIMA GLASHÜTTE
チュチマ・グラスヒュッテ
チュチマ・グラスヒュッテCEO
ディター・デレケイト氏インタビュー
「グラスヒュッテに戻ることは、
そう簡単ではなかった」
チュチマの輸入元がモントレックスに移ったことを受け、現オーナーであるディター・デレケイト氏が9月26日に来日。単独でお会いする時間を設けてもらった。そして、筆者が一番に聞きたかったのはチュチマブランドを受け継いだ経緯についてだ。そこで今回は、デレケイト氏の話をもとにチュチマの歴史を簡単におさらいしてみたいと思う。
チュチマとは、最初からブランドとして存在していたわけではない。第1次世界大戦によってもたらされたハイバーインフレによって、グラスヒュッテの時計メーカーが倒産の危機に瀕していた。それに対処するため1926年に設立されたのがUROFA-UFAG社だ。チュチマとは、実はそこで作られた製品グレードの中で最高品質を示す名称だったのだ。その語源は、日本語で“精密な”を意味するラテン語のティトゥス(tutus)からきている。ちなみにUROFA-UFAG社とは、ドイツムーヴメント製造会社グラスヒュッテ(通称UROFA)とグラスヒュッテ時計会社(通称UFAG)の2社からなり、両社の社長を務めた人物が法律家だったエルンスト・クルツ博士である。
クルツ博士は、弁護士であると同時にマネージメントにも優れていたようだ。彼はグラスヒュッテの時計産業を復活させるために、腕時計の機械生産を積極的に推進。最高品質を示すこのチュチマラベルを使用した優れたムーヴメントの量産化を成し遂げた。なんと30年代にはグラスヒュッテに1000人規模の雇用を創出するなどの20年余りで大成功を納めている。そして、第2次世界大戦期まで数多くの名機をリリース、なかでもキャリバー・UROFA59を載せた軍用クロノグラフ(1941年発表)はチュチマの名声を高めた傑作として知られている。
しかし、第2次世界大戦はクルツ博士が創設した二つの工場を含めチュチマブランドのすべてのものを破壊した。そして、軍に時計を納入していた彼らは戦争協力の罪に問われることを恐れ、戦争が終わる翌日、クルツ博士と彼の同僚たちは設計図を持って、グラスヒュッテからアメリカの占領地域にあった南ドイツのバイエルン州に逃れている。そしてメンメルスドルフの町に小さな工房、クルツ時計会社を設立。その後51年に北ドイツのブレーメン州近郊のガンダーケゼーに時計製造の拠点を移し、「KURTZ」という自身の名前で腕時計を製作、ロゴにはグラスヒュッテの伝統を受け継ぐ意味で「Glashütter Tradition」という文字も添えられていた。そして、クルツ25など高品質なムーヴメントを製造している。
現オーナーのデレケイト氏がこのクルツ時計会社に入社したのは54年のこと。彼が19歳のときだ。クルツ博士の下、管理部門に従事しながら多くのことを学んだデレケイト氏は、その後販売部門に移る。しかし、当時、もはや西ドイツにおける時計製造の中心は、南部のフォルツハイムだった。高級時計を作っていたクルツ時計会社は、そこでの大量生産による低価格化競争には勝てず、やむなくクルツ博士は破産。彼の同僚だったヴェルナー・ポーランが買い取り、社名をUROFAに北ドイツの北を意味するNを追加したNUROFA社に変更し継続するも、長くは続かず59年に生産を終了する。
59年に退職したデレゲイト氏は、クルツ博士の遺産を残すため、60年にチュチマのブランド名を復活させることを決意。ブランドの権利を取得し、クルツ時計会社の技術スタッフを雇い、もともとあったガンダーケゼーの地で自身の時計製造会社、ディター・デレケイト時計製造会社(Diter Delecate Uhrenfabikation)を設立し、ブランド名としてチュチマを復活させた。その後83年には会社名も、チュチマ時計製造会社(Tutima Uhrenfabrik GubH)に変更している。
当初は、約12人の技術者がムーヴメントや腕時計を組み立てることで、最初に女性用、次に紳士用の時計をチュチマ名で販売。クルツ博士はこれを大いに喜んだと言う。しかし実際には、当初のセールスはかなり厳しかったとデレケイト氏は言う。それは、かつて高品質で知られたチュチマ名を知る人が当時ほとんどいなかったからだった。
また同時にデレケイト氏は、低価格なフォルツハイムのブランドと競争しなければならなかった。そこでまず目を付けたのが香港のサプライヤーだったと言う。そして当初はケースなどの部品を香港から供給を受けていた。しかし結果的にはこれが功を奏し、79年には香港に独自のクォーツ時計会社、チュチマ香港社(Tutima Hong Kong Ltd.)を設立するなど、70年代に起こったクォーツショックによって、ヨーロッパの名だたる時計ブランドが窮地に追いやられるなか、いち早くクォーツに対応することでこの苦難を乗り越えることができたのだった。
そして85年。NATO軍にも制式に採用されるなど、軍用時計メーカーとしても一目置かれる今日のチュチマを世界的に知らしめた傑作が誕生する。それが、レマニア5100を搭載する“NATOクロノグラフ”である。当時ドイツ軍はドイツ空軍用のクロノグラフのためにドイツの時計会社からの入札を募った。クォーツ時計のバッテリーがどれだけ持つのか不安視していたため、ムーヴメントはクォーツではなく機械式というのが条件だったと言う。そしてドイツ空軍のパイロットウオッチとして見事に採用。デレケイト氏はこれを機に、クロノグラフやダイバーズウオッチなどの堅牢で実用的なコレクションを主軸に展開する。
89年、ベルリンの壁崩壊で東西ドイツが統合されたことを受けて「グラスヒュッテに戻ろう」と決意したと言うデレケイト氏。しかし、実際に本拠を移したのは2008年。時間がかかってしまった理由について「グラスヒュッテに戻ろうと決意はしたものの、すでに西側では会社として従業員もいたことですし、すでにしっかりと地盤を築き上げた会社だったため、グラスヒュッテに行こうと決意はしたものの、そう簡単なことではありませんでした」と当時を振り返る。
長年、北ドイツで軍用時計を作り続けてきたチュチマ。生まれ故郷であるグラスヒュッテの地に復帰した最初のプロジェクトが11年に発表したミニッツリピーター機構を搭載する“オマージュ”である。「開発に3年も掛かりました」と言うほどかなり苦労したと語る。また13年には、日本語で“故郷”を意味するラテン語の“パトリア”を発表。あわせて、待望の自社製ムーヴメントも完成させた。
軍用時計に加えて、いまや古典的な3針やミニッツリピーターなど高級ラインも製作するようになったチュチマ。デレケイト氏は最後にこう締めくくった。「ミニッツリピーターなどの高級ラインは、あくまでもブランドの技術力を示すために開発したもので、我々のメインビジネスは、あくまでもミリタリークロノグラフをはじめとする堅牢で実用的なコレクションです。これは今後も変わりません」
取材・文◎菊地吉正/写真◎笠井修
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